元号が変わってマスコミが大騒ぎしている大型連休の入り口。何を書こうかな、と考えていたんですが、思うところがあって、随分と昔に書いたエッセイをもう一度。
背筋を伸ばせ。
と、あるとき父は、僕に命じました。
確か、僕がまだ、いたいけな中学生だった頃でした。当然、背筋を伸ばせ、って言われれば、こう、胸をはって、若干後ろにそっくりかえるような姿勢になるわけですよ、普通はね。
で、叱られるわけです。それは違うと。逆だと。
背筋を伸ばすのなら、お年寄りのように、前にまるまるような格好になるはずだ、そっくりかえると、背中の筋は縮んでいるはずだ、というようなことを言うわけです。
胸を張る、と、背筋を伸ばすは、言葉としては似ているように聞こえるけど、本当は全く逆なことなんだ、というようなワケのわからないことを、中学生の僕に対して、真剣に語るんですね。
要するに。
みんなが、ま、こんなものだろ、と思うことには、必ず、逆の意味が隠れているんだ、といったことを力説していたような気がします。
まー、胸を張るだの背筋を伸ばすだの、そんなことならまだしも、時には題材が、戦争だったり、明治維新だったり、宇宙人だったり、野生だったり、ここにはとてもじゃないけど書くのがはばかれることも盛りだくさん、性のこととかさ。父は、議論好きの元やくざ、というようなヒトでしたから、中学生の僕に対しても全く手加減なし。
今でこそ僕は、モノを書いて生業を立てている、その端っこのほうに位置しているワケですが、いかんせん中学生の僕には、言い返せるだけのボキャブラリーも、過激なハナシの内容についていけるだけの感情のキャパシティーも、持ち合わせていない時期です。
でもね、いくらなんだってバカ中学生の僕でも、議論をふっかけられるとだんだんアタマにくるワケですよ。
で、決死の覚悟で、僕はそうは思わない!などと、ささやかに反論するんですね、やめときゃいいのに。
幼いバカが必死で反論するそのそばから、父は真剣に、かたっぱしから論破していくわけです。
で、かなわなくて、悔しくて、話しているうちに、ガーっと涙がでてくるんですね。
少しは手加減せぃ、というカンジですよ、きっと傍から見てたら。
そんでもって、必死に、泣きながら反論する僕に、さらにたたみかけてくるワケですよ。
「おまえが言っているのは議論か?それとも意見か?それとも文句か?泣き言か?」といったふうにね。
いいかい、オサム、物事というのはね、例えばこういう時はこんなふうに考えるだろう、 でもね、そんな時は、こんなふうに考えることができるのではないかなぁ?といったふうに、もうちょっと優しく、理性的に、穏やかな物言いもあったのではないのか?このクソ親父!などとも今だから言葉として書けますが、なにぶん、あの頃の僕には、そんな上手な抗議などできるわけもなく、だから父は、とてもやっかいな存在でした。
いろいろな事を考えざるを得ない今だから、こんなことを思い出したのかもしれません。
そんな父は早くに亡くなりましたが、誕生日を迎えたばかりの僕は、父の死んだ年齢から、5年も長生きしています。父の命日はもうすぐだし。
平成が令和になったからといって暮らしはなにも変わらないと思われますが、背筋を伸ばして生きていこうと考えました。
エッセイスト 北園 修
Photo:藤間 久子『Slowly』